ご存じでしたか? 毎年11月1日は「紅茶の日」です。1983年(昭和58年)に日本紅茶協会により定められました。その由来は、1791年(寛政3年)の11月1日に、伊勢の国(現・三重県)出身の船頭・大黒屋光太夫という人物が、ロシアの女帝・エカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて外国での正式な茶会で本格的な紅茶を飲んだ、という逸話からきています。しかし、なぜ日本人の船頭が、遠く離れたロシアの皇帝のお茶会に招かれることになったのでしょう。その裏には、大黒屋光太夫の波乱に富んだ人生が隠されています。その足跡を少したどってみましょう。
江戸時代−1782年(天明2年)12月9日のこと、伊勢の国の白子港(現・三重県鈴鹿市)から、廻船・神昌丸が出港しました。船頭は、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の主人公としても知られる大黒屋光太夫(1751-1828)。船員は総勢17名、米や木綿などを積み江戸に向かいました。 しかし出港から4日後、神昌丸は遠州灘で嵐に見舞われ遭難してしまいます。光太夫らは約7ヶ月もの間漂流を続け、ようやくロシア領・アレウト(現・アリューシャン)列島の小さな島、アムチトカに上陸。厳しい寒さの中、多くの仲間を失いながらもこの島で約4年を過ごし、帰国嘆願のためにシベリア本土のカムチャッカ半島へ渡りました。しかし、当時の日本は鎖国状態。嘆願は却下されてしまいます。
それでも光太夫らはあきらめず、帰国許可を求めてシベリアをまさに「横断」します。カムチャッカからオホーツク、シベリアの中心都市イルクーツク、そして首都サンクトペテルブルクへ。ペテルブルク到着は1791年2月のこと。総移動距離は1万kmを超え、アムチトカ漂着から実に8年もの歳月が過ぎていました。
光太夫らがペテルブルクを目指した理由は、女帝エカテリーナ2世(1729-1796)に直接帰国の許可を願い出るため。その並々ならぬ苦労と努力の甲斐あって、ついに謁見がかないます。彼らの境遇に深く同情した皇帝はすぐに帰国許可を与え、翌年、光太夫らはオホーツク港からついに帰国の途についたのです。しかし、帰国したのは光太夫のほか2名のみ。他の仲間は、厳しい旅路の途中で命を落とすか、ロシアに帰化していったと伝えられています。
さて、皇帝への謁見から帰国までの間、光太夫はロシア皇太子や貴族、政府高官から大変優遇されました。様々な招待を受け、当時のロシア文化、社会を体験しています。また、エカテリーナ2世の文化的事業に協力するなど、大きな足跡を残しているのです。 こうした貢献からか、ペテルブルクを離れる直前の1791年11月1日、光太夫はエカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて、本格的な欧風紅茶(ティー・ウィズ・ミルク)を楽しんだといわれています。このことから、日本紅茶協会は、この日を日本における「紅茶の日」と定めました。
決して帰国をあきらめず、仲間を導きシベリアを横断した奮闘ぶりと、ロシアにおける功績を考えれば、皇帝のお茶会に招かれたというエピソードもごく自然なことに思われます。ロシア滞在中想像もつかない苦難を味わった光太夫も、エカテリーナ2世をはじめとするロシアの人々の温かい心に触れ、優雅な宮廷の一室でおいしい紅茶とお菓子を楽しんだひとときは、きっとおだやかな気持ちに満ちていたことでしょう。
11月1日には、そんなエピソードに思いをはせながら紅茶をいれてみませんか? とっておきの茶葉とティーセット、もちろんお菓子も忘れずに。きっと、“ティータイムがある幸せ”を感じられることでしょう。